家族

わたしの家族のイメージ映像↓

楽しげに一つの紐で輪っかをつくってその中で繋がってる
離れていてもこんな風に繋がっているイメージ

家族

私の中でずっとずっとモヤモヤしてきたもの

父や母の喜ぶ顔が見たい
きょうだいの喜ぶ顔が見たい

それが叶わないのなら離れたい
傷つけたり
傷つけられたりするのなら
いっそ関わりをたちたい

そーやってぶつかって離れて逃げて
遠くから様子を見て
近づいて距離を見て

いま

コロナのお陰で
会う時間も減り
コロナだから、今は用心して会うのやめようね、、、元気でね、、、

そーすると

会えるときは嬉しくて
会えなくてもそれぞれが自分を大事にして生きているでしょうと
あったかいもののみ湧き上がる

あー
よかったなぁ

こんな風に家族のことを思えるようになったんだ

すっかり安心しきってのいま。

家族のみで忘年会をしようと話があがりそれに対する一人一人の考えを
メッセージでやりとりする

その一言一言がわたしにはナイフを刺されたみたいに突き刺さる




え???

わたし、まだ家族とこんな感情湧きあがっちゃうの(号泣

ダンナさんに一通りお話しをして
一通り見てもらって
一緒にお風呂に入ってお話しを聞いてもらって

「いま、悲しい傷ついたって感じてること、ダメなことって思わなくていいんだよ。自己否定しちゃダメだよ。
むしろ、そーやって傷ついた!って感じてくれた自分を褒めてあげて。
ちゃんと自分を守ってくれてるんだよ」

「きみは、もともと誰に対しても心開きがちだから、おんなじように愛情深く愛を表現して世界を見渡している人ばかりだと思って接して、違ってびっくりしちゃうことが日常でしょ?家族だと特に、そーやって自分のことわかってくれてるって思ってるところあるのかも。甘えがある。だから、特にびっくりしちゃうのかもね?相手が自分を攻撃してくる可能性があるって気構えしてたら、そんなに傷つかないのに、安心して甘えきって全部オープンでいくから、期待があるから、よけいと傷ついちゃうのかもね?」

ダンナさんの言葉がホッカイロみたいにじわじわと染み込んでくる

なんだろう

前までは、ダンナさんに諭されると
ちがうちがうそーじゃない!!
そーじゃない!!!!
やっぱりわかってもらえない
わたしの思いは
わかってもらえないんだ
誰にもわかってもらえない
孤独なんだ、、、

と自暴自棄になっていたけれど
今はあったかい

家族一人一人の言葉は、メッセージに書かれていた「文」で。
ただの言葉で。

わたしも、その一人一人の思いをまるっと受け取ってるわけではないんだ

真意をわかっているわけではない

私が勝手にわたしのフィルターを通して見て、勝手に傷ついている

誤解

この世界はなんて誤解で溢れているんだろう

勝手に期待して、がっかりして
嫌いになってたちきって
また、忘れて近づいて。

ばかだなぁ、、、

身体と心が、痛いよ悲しいよ苦しいよーと反応してくれた

今の私にできることはそこまで。

反応してくれてありがとう

この先の家族との繋がりや、どんなふうに繋がっていきたいかは
コントロールできない

わたしは、出会う人モノコト全ての瞬間に「喜び」を感じていくと決めた

のであれば

当日、わたしは「喜び」であろう。

傷ついちゃうかもしれない
とても苦しい思いをするかもしれない
二度と会いたくないってなるかも?
そこに身構えず、今まで通りフルオープンで「喜び」であろう

ダンナさんがわたしのそばで付き添ってくれる
わたしの変化を楽しみに見ていてくれている

わたしは安心して喜怒哀楽を感じよう

ダンナさんがわたしにしてくれていることを私が私にしてあげる

大丈夫、大丈夫!
いまおこってることは、もう祝福以外のなにものでもない

わたしに湧き上がってくる言葉や思いをそのまんま出しちゃおう
今まで、遠慮しておさえてきたものを
今回は出しちゃおう

どんなことになるかわからないけれど
いま、それをとってもしたいんだ

物分かりのいいふりして
なかったことにして
このまま二度と会わないという選択肢もある

それは、色々やってみてからでもできる

忘年会では、何を言うでもなく、やるでもなく

ただただ「喜び」のみもってそこにいるをやってみよう

その日までまだまだ日があるから、
それまでわたしにどんな変化が起こるかも見つめよう

コロナが全世界に広がって
多くの人たちが苦しんで
新たな生活様式が生まれた

わたしは、多くの人と会わなくてよくなり、ほんとうにほんとうに心の底から心身ともに休むことができた

全ての事象から、たっぷりと距離をとることができた

いつ死ぬかわからない

それは、コロナじゃなくてもなんだよね

今までもそーだったのに気がつかなかった

当たり前に朝が来て、当たり前に目が覚めて当たり前に一日がすぎていく

大好きな人とも、どーでもいい人ともおんなじように溢れる時間をふんだんに使っていきてきた

出会う人全てが「死」の原因となるかもしれない
自分の選択肢が「死」に直結しているかもしれない

それは、コロナ前もそーだったんだよね

であれば、わたしはどう生きたいか
どうしたいのか誰といたいのか
何をしたいのかどこにいたいのか
希望や欲望は、CMや、雑誌、sns目に入る全ての情報に左右されて

ほんとの欲しいものにはモヤがかかっていた

我慢をして、他人の求めるものを優先なんてしたら、「死」に直結する

そんな風に一つ一つのベールを剥がしていっている途中のいま

家族

が浮上してきた

家族だから仲良くしなくちゃいけない?
家族だから共にいなくてはいけない?
家族だから、、、??

縁があって共に生きてきた仲間

「家族」という概念
思い込み、すりこみも外せるのかも

親のめんどうをみるとか、きょうだいを助けるとか、介護とか、、、
お墓のめんどうをみるとか、、、
家ってなんなんだろうね?
しがらみ

家族

地球に生まれてくるための一つの形なのだとしたら、ある程度地球で生きていけるようになったら、分解してそれぞれが自由に生きていくことでさらに良い関係が築けるのではないのかしら?と思ったり。

家もお墓も(そもそもお墓っているんだろうか、、)自由にどんどん動いて変化して留まらないのがいいなー

地面が動いたり雨や雪が降ったりして
土地も変わるから。

ずっとずっとその場所で生きていかなくてはいけないことはないよね

むしろどんどん自然の動きに合わせて心地よい場所を見つけて暮らしていくほうが自然な気がする、、、、

集まらなくていい
自由に離れてそれぞれがそれぞれの喜びの中でいることこそが最高だなぁと思ってしまうんです

☆なないろ星☆くま夫婦の秘密基地☆

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